20230219 宣教要旨「山を移す神」ホセア書10:1-10 マルコ福音書11:22-26

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本日の聖書箇所

ホセア書10章 1~10節
イスラエルは多くの実を結ぶ 伸び放題のぶどうの木。たわわに実るにつれ、祭壇を増やし 国が豊かになるにつれ、石柱を飾り立てた。
彼らは二心を抱き、今や罪に定められる。主は彼らの祭壇を取り壊し 石柱を破壊される。
今になって、彼らは言う。「我々は王を失ってしまった。主を畏れなかったからだ。たとえ王がいたとしても 我々のために何ができようか。」
彼らは言葉に言葉を連ね 偽りの誓いを立てて契約を結ぶ。裁きは畑の畝の毒草のようにはびこる。
サマリアの住民はベト・アベンの子牛のゆえにおののく。民はそれについて嘆き悲しみ 神官たちは身を震わせる。栄光が取り去られたからだ。
子牛はアッシリアへ運ばれ 敵対する王への貢ぎ物となる。エフライムは辱められ イスラエルは謀を恥じる。
サマリアは破壊され 王は水面に浮かぶ木切れのようだ。
イスラエルの罪であるアベンの高き所は壊され 茨とあざみが祭壇の周りに生い茂る。その時、彼らは山に向かって「我々を覆え」と言い 丘には「我々の上に崩れ落ちよ」と言う。
イスラエルよ ギブアの日から、あなたは罪を犯し続け そこにとどまり続けた。戦いがギブアで背く者らに襲わないだろうか。
私は必ず彼らを懲らしめる。その二つの悪のゆえに、彼らが捕らえられるとき もろもろの民は彼らに向かって結集する。


マルコによる福音書 11章 22~26節
イエスは言われた。「神を信じなさい。
よく言っておく。誰でもこの山に向かって、『動いて、海に入れ』と言い、心の中で少しも疑わず、言ったとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」✝
もし、赦さないならば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。

ヨシュア記7:4-5「民のうちから約三千の兵がアイに攻め上ったが、彼らはアイの兵士の前に敗退した。アイの兵士は城門を出て石切り場まで追跡し、下り坂のところで彼らを撃ち、おおよそ三十六人を殺した」。
ヨシュア記8:25ー28
その日、倒れた者は、男女合わせて一万二千人。すべてアイの人々であった。
ヨシュアは、アイの住民を滅ぼし尽くすまで、投げ槍を差し伸べた手を元に戻さなかった。
ただし、主がヨシュアに命じた言葉どおり、イスラエルはこの町の家畜と戦利品を自分たちのために奪い取った。
ヨシュアはこうしてアイを焼き払い、とこしえに荒れ果てた廃虚の丘にした。それは今日に至っている。

宣教要旨「山を移す神」

 あちこちに部族ごと分かれて入植したイスラエルの民でしたが、彼らは「王」とその軍隊を中心とした国作りをするようになり、やがて12部族はイスラエル王国と南ユダ王国とに分かれ、互いに反目しあい、北イスラエル王国が先に滅んでしまいます。その時、北イスラエル王国で活躍していたのが預言者ホセアでした。ホセアはイスラエルの民たちが、神の代わりに「王」を立てて、軍事力による国作りをした過ちを告発した預言者でした。
 イスラエルは植えられた葡萄の木。木(神)に繋がっていることを忘れ、実や葉の豊かさに溺れ、力を誇り、傲慢になり神から離れてしまいました。
 共存するために入植したのに戦争となり、エリコを手に入れたことで傲慢となり、歓迎しなかったアイの町の人々を皆殺しにしました。
 その後も神に従わず、人である王に従い、周辺の国々を武力で侵略し、土地を奪い、国力を誇った罪の結果、国を失い捕囚の民となったと、戦争の罪を心から悔いている言葉です。

アベンの高台」とは、侵入を拒んだエリコの町が陥落した後、傲慢になったイスラエルがアイの町を攻略し、住民を皆殺した「罪」の象徴としての地名です。「ギアブの日々」とは、士師サムエルがイスラエルの人々の「我々にも王が必要」の求めに応じてサウルに油を注ぎ、最初の王を立てた、神の代わりに人を王とした過ちを指しています。王に頼り国力拡大のために人々を皆殺しにした罪を恥じたイスラエルの民は、悔い改めの時に灰を全身に被るように、山や丘が自分たちの上に崩れ落ちるよう、罰してくれるよう祈った、と預言者ホセアは記しています。その“過ちを徹底的に悔いる”姿は、ヨナ書におけるニネベの町の人々が悔い改めた時の姿と重なります。

 難民であったイスラエルの民たちは、当初、共存と安住の土地を求めただけでしたが、侵入を拒否され攻撃されれば専守防衛の戦いをせざるを得なかった。が、戦いに勝つと傲慢になり、武力で侵入を妨げる先住者たちを、その非戦闘員を含めて皆殺しにするなどの罪を犯しました。イスラエルの民にとって、安住の地を手に入れ、安住を守るためには、軍事力を持った国家は必要なのか、必要ではないのか、戦いは避けられないのか、という問いは、国を失った後も、そして現代も、解決されていない大問題なのです。

 世界のユダヤ教徒1300万人のネットワークがあります。第二次世界大戦後のイスラエル建国を賛同し、パレスチナによける「イスラエル国」を支持しているグループもあれば、神によってではなく「国」に守られようとしたことがかつての誤りであり、我々には特定の「国家」は必要ではない、とするユダヤ教徒の派もあることを覚えていたい。

 イエスの「(芥子粒ほどの信仰があれば)山に向かって海に移れ、と言えばそのとおりになる」とは、病んでいる人への治療(悪霊の追い出し)ができなかった仲間が、自分たちに何が足りなかったのか、の問いに答えたもの、信仰の強さを表すものとして書かれています。治癒・治療行為を行うとき、悪霊(病気の原因)を追い出していただくよう神に祈る、神のちからを心から信じることが必要、との脈絡で記述されていますが、ヨシュア記の「山に向かっての懺悔、悔い」の言葉(神の裁きにより山や丘が我々イスラエルを押しつぶすなら、それを受け入れるしかない)が本来のイエスの言葉だったと思われます。

 イエスの時代も、国に対して反乱を起こし、世直しをしようとする機運は高まっていたはずです。それに対して、武力蜂起したり戦争して世直し(革命)を起こそうとしなくても、神が世直しに立ち上がられたら、山をも動かしてくださる、という言葉だったと思われます。


先週の出来事

東淀川教会の皆様。尼崎教会での礼拝説教に来てくださってありがとうございました。

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