20190210東淀川教会礼拝 列王上7:1-6 マルコ6:7-11 司式・牧仕 金田恆孝

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旧約聖書第一列王記 7章1-6節
1 ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。
2 主の言葉がエリヤに臨んだ、
3 「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。
4 そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。
5 エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。
6 すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。

新約聖書Markマルコ福音書6章7-13節
6:7    また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、
6:8 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、
6:9 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。
6:10 そして彼らに言われた、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。
6:11 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。
6:12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、
6:13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。

聖書から聴く  主題「難民の中の捨て聖」
エリアは神に用いられ、支配者たる王に対する神の怒り、裁きを告げ、迫害を逃れて山中で川の水を飲みカラスに養われた。また、わずかな食べ物しかない貧しいやもめの家で養われつつ癒やしの業を行い、神の御心・働きを現した。

アッシジの聖フランシスコ 1182~1226
フランシスコも「人、もし完全ならんと欲せば、往きて持てるものを売り、これを貧しき者に施せ、さらば天において宝を得ん」と、また「人もしわがあとに従いきたらんと欲せば、おのれをすて、おのが十字架を負いて従うべし」、さらにまた「途中なにものをも携えざることを命ぜり」と、聖書の言葉をその心にきざみこんでいた。まっすぐに時代の難民達の中に飛び込んでいった。
無所有の精神(創造者である無限の存在者に働きを返す)教会なし。
小さき(貧しい)兄弟会 吟遊詩人。

「一遍」遊行僧 1239~1289  一遍の生きた13世紀後半という時期
仏教は、天台宗、真言宗など大教団化してゆくにつれ、貴族などとの結びつきが強くなり、民衆から遊離していった。捨てる心すら捨ててしまった。
一遍は、これら行き場を失った非人や女性など弱者の救済を目指して、我執を捨て阿弥陀仏への絶対帰依を説いた。道場を無用とし遊行し、歌と踊り念仏で他力本願の道を説き、時代の難民の中で、ひたすら生かされる人へと再生する道を示し続けた。

イエスもまた、弟子達を二名ずつ六組に分け、何も持たせず、ただ「時代の難民に養われるしかない」姿で神の御心とわざを現す道へと仲間達を派遣した。

現代社会はさらに数多の難民が生み出されようとしている。捨て聖たる働き人を神が派遣されるに違いない。

先週の出来事(気になるニュース)
厚労省の統計不正問題から見えてくるのは、賃金の正確な実態を把握しようとする意識すら持たない、ずさんな役人の仕事ぶりだ。ますます情報や調査結果など信じられないのが現実である。
 

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