20220529 宣教の要旨「エライ人たちが置いたつまずきの石」ミカ書 マルコ福音書9章 マタイ福音書5章

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(聖書協会共同訳)
創世記3822
友人はユダのもとに戻って来て言った。「女を見つけることができませんでした。土地の人々も、『ここには神殿娼婦などいません』と言うのです。」

ミカ書1 57
これらすべてはヤコブの背きと イスラエルの家の罪によるものだ。ヤコブの背きとは何か。サマリアではないか。ユダの高き所とは何か。エルサレムではないか。
私はサマリアを野にある瓦礫の山とし ぶどうを植える所にする。その積み石を谷に投げ捨て 土台をむき出しにする。
その彫像はことごとく砕かれ 遊女の報酬はすべて火に焼かれる。 私は偶像を残らず破壊する。それは遊女の報酬から集めたもので 遊女の報酬に戻される。

マルコによる福音書9 42
「また、私を信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、ろばの挽く石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまうほうがはるかによい。

マルコによる福音書9 45
もし、片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨てなさい。両足がそろったままゲヘナへ投げ込まれるよりは、片足になって命に入るほうがよい。

マルコによる福音書9 47
もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両目がそろったままゲヘナに投げ込まれるよりは、一つの目になって神の国に入るほうがよい。

マタイによる福音書5 27-30
「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、私は言っておく。情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯したのである。
右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがましである。
右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨てなさい。体の一部がなくなっても、全身がゲヘナに落ちないほうがましである。」

宣教の要旨「エライ人たちが置いたつまずきの石」
 むかしむかし、ヤコブとレアの子ユダ(イスラエル12部族の一人)の時代に、すでに「神殿娼婦」が登場しているのです(ユダと、ユダの長男エルの妻タマルの物語)。昔、日本の伊勢神宮の前に売春システムがあったのに似ています。ソロモン王の没後北イスラエル王国(サマリア中心)と南ユダ王国(エルサレム中心)に分かれたのちも両方に神殿娼婦制度があった。神殿娼婦や遊女は、体を売るしか生きるための糧を得られなかった、最も貧しい立場の女たち・やもめたち。彼女たちを欲望の対象として利用しつつ、取り締まりながらその収入の一部をピンハネしていた政治家・神殿支配者がいて、それを預言者ミカ(イザヤの時代)は批判し、神が神殿の豪華な建物も彫像も装飾も、みな彼女たちからピンハネしたお金によって作られた偶像であり、この偶像を神は破壊される、とミカは告げます(偶像崇拝禁止の偶像のルーツはここにあります)。神殿に残っている富・お金は、彼女たち(男娼も含む)がピンハネされたものだから、彼らに戻されなければならない、とミカは語るのです。

 海に投げ込まれたほうが良い「小さな者の一人をつまずかせる者」とイエスが語るのは、体を売る以外に収入が得られない立場に追い込み(つまずかせ)、ピンハネしながら、贖罪の律法を守らせている、堕落したユダヤ教神殿支配者たちのことだった。

 最初に書かれたと言われるマルコ福音書でさえ、イエスの十字架からすでに40年ほど経っていた。ヘレニズム文化のキリスト教が生まれていた。  マルコ福音書は、選民思想とは異なるイエスの語り「神からいのちを吹きこまれて誕生した人の子(人間)はみんな神の子である」というラディカルかつ、本質的な教えを出発点としていた。ユダヤ教・ヘブライズムの(エルサレム教会派)と、ヘレニズム・ギリシャ文化の影響の中にいたディアスポラ中心のアンティオキア教会とが相互に影響し合いながら、十字架までのイエスの姿を再現しようとした最初の福音書だった。当時、すでにイエスから始まる「キリスト教」が始まっており、ユダヤ教再興の意図はなかったと思われる。
 イザヤやイエスが伝えたのは、世の最下層、最後尾に置かれているもっとも小さき者への救済に神は立ち上がられている、神はそこにおられる、というメッセージだった。イエスには自分がメシアなどという意識はなかった。そのイエスに対して「あなたこそ神の子・メシア」という持ち上げ方に対して「私は人の子」で切り返し、神にいのちを吹きこまれた人を地の民、汚れた人々とレッテルを貼り、排斥するエライ人たちに対しては「あんたらは神の子になにすんねん!」と批判と攻撃の手をゆるめなかったと思われる。そんなイエスのラディカルさは40年の間に薄まり、「みんなに受け入れられるキリスト教」の布教のためにはむしろ邪魔だったにちがいない。
 すべての人が神の子という、選民思想を持たないイエスは、神のもとに招かれている人と、招かれない人を分けず、人を裁く言葉を発しなかった(裁いてはならない)が、人を裁いたり「地獄」で脅したり、つまずかせる人々(ユダヤ教指導者、権力者、貧しい者を作り出す富んだ人々)への非難・批判をけっして止めなかった。姦淫を繰り返しながら姦淫罪で人をつまずかせ、贖罪と称して富を収奪しながら貧しい者を作り出し追い込んでいるエライ人々への厳しい言葉を発し続けた。姦淫しているその眼を自分でえぐり取らなければ、あんたらこそ救われないぞ あんたらが作り出した地獄に自分で落ちていくしかないぞ そういう言葉だった。
 かつてのユダヤ教の厳しい戒律、救われるための条件、贖罪の捧げ物などから自由なディアスポラのユダヤ人や異邦人に対して、新たな選民思想をもとに「キリスト教」を布教していくためには「救われるための条件」を提示していく必要があった。しかもそれはイエスの言葉でなければならなかった。そのために、イエスが、エラそうにして弱い者いじめしている人々に向けて発していた言葉まで、ヘレニズムキリスト教の教団形成、教義・倫理規定(清くなるための倫理・救われる条件)に利用されたと思われる。

先週の出来事
 「世界同時革命」を叫び、1972年イスラエルのテリアビブなどでテロ活動を行った日本赤軍もと幹部の重信房子氏が刑期を終えて出所した。50年、半世紀の時が流れていたことにあらためて驚く。まずは「死刑」でなくて良かった。あの時代は何だったのか、今につながる50年をどう感じ、今、どう考えているのかを、この時代の人々に語ることが出来る。それを聴きたい。

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