20220605 東淀川教会宣教要旨「聖霊に捕まる」イザヤ書11章 マタイ福音書13章 担当 金田恆孝

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2022年6月5日 聖霊降臨節第一主日礼拝 (ペンテコステ礼拝)

聖書箇所(聖書協会共同訳)
イザヤ書11章 1−6節
エッサイの株から一つの芽が萌え出で その根から若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と分別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れる霊。彼は主を畏れることを喜ぶ。その目の見えるところによって裁かず その耳の聞くところによって判決を下さない。弱い者たちを正義によって裁き 地の苦しむ者たちのために公平な判決を下す。その口の杖によって地を打ち その唇の息によって悪人を殺す。正義はその腰の帯となり 真実はその身の帯となる。狼は小羊と共に宿り 豹は子山羊と共に伏す。子牛と若獅子は共に草を食み 小さな子どもがそれを導く。

マタイによる福音書 13章 44-46節
「天の国は、畑に隠された宝に似ている。人がそれを見つけると隠しておき、喜びのあまり、行って持ち物をすっかり売り払い、その畑を買う。
また、天の国は、良い真珠を探している商人に似ている。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

ルカによる福音書5章 11節
そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。 

宣教の要旨「聖霊に掴まる」
イザヤ書11章のエッサイ(ダビデの父)から始まるビジョンは、メシアが理想的な王として現れる、というメシア待望、天の国への期待が描かれていますが、イエスの語った天の国とは異なります。

天の国は、農奴として雇われて働いていた畑で偶然見つけた、隠ていた宝に似ているという。あせってその宝を持ち去ることをせず(窃盗になる)、そのままにして、持ち物を全て売り払い、何食わぬ顔をして畑を合法的に購入し、宝を手に入れた、宝物を手に入れた後は、購入した畑もすぐ売却し、その地を去ったと想像します。

天の国は、宝石商が見つけた最も美しい真珠一つを得るために、他の宝石を全て売り払い、手に入れた真珠に似ているという喩えです。プロの宝石商が一つの真珠の魅力に取り憑かれた。その真珠が、所有している他の宝石全てを足しても余りある貨幣価値があると判断して、他の宝石類を全て売り払ってそれを手に入れたわけではない。大きさにも限度のある天然の真珠がそれほどの価値があるなんてあり得ないだろうし、まさに取り憑かれたことになるのでしょう。

他人の畑に偶然宝を見つけたのも、宝石を貨幣価値でしか見なかったプロの商人が、美しい真珠のために全商品を投げ出したのも、天の国という喩えならば、聖霊が降りた?聖霊に捕まった?という表現の方がふさわしいのでしょう。

「天の国」(マタイ以外は「神の国」)は交換価値でも財産でもなく、何かを保証してくれるものでもなく、流動的な感情に捕まったことでもない。これのために今までの人生があったし、これさえあれば、これのためだけに生きていける、何のために生きてきたのか、その答えがここにあった、そういう類の発見であり「宝」であり「真珠」でもある「天の国」なのだと思います。

イエスが教えた第一の戒め「思いを尽くし力を尽くし心を尽くして主なる神を愛せよ」。その“祈り、声を聞き、対話していた”親のような神が、私のためだけに一つの道を示して下さった。他は捨ててこれに従おう、という決断しかない宝のような、真珠のような天の国、神との関係が与えられる喜びが必ずあります。

 まだ、そのような宝にも真珠にも出会えていなくとも、もしも出会えたら、他の全てを捨てる、ここを離れることのできる希望と心の準備は必要だろうし、身軽さも必要なのでしょう。

 「天の国」は、この世の価値観、常識、理性、既知の意味とは異なります。水が低きより高みに流れるごとき、“狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す”が起こるようなヴィジョンへの招きなのでしょう。

「天の国・神の国」は、特別に隠されているものでもなく、努力して探すものでもない。ごくありふれた日常の中にあるもの、畑の土塊の間にチラッと覗く、金や銀や水晶などの貴金属製品の中に埋没している、さりげなく身近なところで出会うことができるものなのでしょう。他の全てを捨てて一つ(の道)を選択することが、何より神さまに活かされることを実感できる、夢中になれる、上手くいかなくっても何の後悔もない、そういう旅立ちの道なのでしょう。

 現代社会、家畜動物と一緒に移動する遊牧民のような移動の民は少なくなっている代わりに、安住の地を奪われ、国家に守れられない移動の民・難民の数が地球上、過去最高(2020年末時点で、紛争や迫害により故郷を追われた人の数は8,240万人とも)に膨れ上がっています。過酷な迫害の後、“国家がなければ民は守られない”と無理矢理建国したイスラエル(始まりは遊牧民であり、国を失っても二千年間心の国を失わなかった)によって戦争が続き、難民が生み出されてきた歴史もあります。

 樹木や苗木を新たな場所に移しかえるために、それまで伸ばしていた根をあえて切ることで、環境の厳しい土地で新たな根を伸ばすため「根切り」を行います。私が神さまから「手ぶらで△◇○の地に行きなさい」と指示されたら、さっと動けないと思います。しなければいけないと思っていることなど、言い訳は山ほどあります。でも、何もかも捨てて、後ろを振り返らずに足を踏み出すことが求められているのならば、私がしなければならないのがこの「根切り」なのでしょう。

 日本の憲法には一応、国籍離脱の自由が保障されています(小中学校で教えるべきだと思うます)。全く新たな旅を始めるには、多くの国々が定めている国境、ボーダーラインを越える必要があります。海で越える、アルプスの山越えなど、古から困難な課題だったと思います。イエスが喩えで話された、畑の中で見つけた宝物、とは、どんなイメージでイエスは話されたのかなと考えますが、福岡県のとある畑から見つかったという「漢委奴国王印」からの連想ですが、エジプトの王、あるいはローマの王が発行した印で、それを見せれば、どこでもフリーパスのようなものがあったんじゃないか?と空想しました。

 “聖霊が「炎のような舌」の形で使徒たちにくだった” その結果、人々はギリシャ語やヘブライ語などの共通語ではなく、生まれ育った地方各々のバラバラな言語で、語り出した。そのバラバラ言語を違いにわかった、という奇跡が記されています。これが教会の出発点だと牧師たちは語るわけですが、今日の教会はそのような、互いに違う人々の交叉路の上に建っているのでしょうか。

 世界中、肌の色も言語も文化も異なる人々の“生の声”が互いの心に響き合うとき、神の国が現れてくると信じたい。

天の国は“娼婦の方が先に神の国に入る”(マタイ21:31) “子どものように神の国をは受け入れる人でなければ”(マルコ10:15)とイエスは言われる。娼婦の祈り、子どもの心を持ち続ける者でいたい。

先週の出来事
 尼崎の中学校で3日、全員マスクで体育大会の練習中、生徒22人が熱中症で病院に搬送されたとのこと。学校行事で適切な距離がとれているか、熱中症になるリスクは高いか、低いか、など細やかな観察と判断はまず無理だろう。児童へのマスク着用義務そのものを考え直すべきではないだろうか。

 

 

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